1457(長禄元)年5月、アイヌの酋長であるコシャマインが、和人の横暴に対してアイヌを糾合して和人豪族の館を攻め、
和人方は茂別・花沢の二館だけが残るだけとなった。
その時、花沢館主の蠣崎修理大夫季繁の客となっていた武田信広がコシャマイン父子を射殺したことで、乱は和人方の勝利に終わった。
乱後、信広は茂別館主下国安東八郎式部大輔家政の娘を娶り、蠣崎姓を名乗り、蝦夷地を平定し、松前家の祖となる。
五代・慶広のとき家康より安堵され、蝦夷地交易の黒印状を受けて松前氏と称する。
墓は一般に松前式・石廟といわれる石室式。墓碑18、五輪塔12、石燈3が建立され、総体で23棟もある。
向きは東西に並ぶ南向き。石はわざわざ越前から運んだ越前石で、加工も越前でなされているらしい。代々の藩主は短命である。
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