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著者 初代中川聖山・岩城史郎 定価 31,500円(消費税込)


著 者 中川 聖山
著者略歴
昭和5年韓国のソウルにて生まれ、中学まで同地で育つ。 昭和20年日本の敗戦にあい帰国。翌年、愛知県岡崎市能見町永泉禅寺、鷲見東観師の許に入門し、門前の小僧習わずして姓名学、墓相学を学ぶ。 のち早稲田大学文学部を卒業して、雑誌記者、ルポライターになり多方面にわたる取材、資料を駆使したジャーナリストとして活躍する。
現在は仏教美術の研究にも力を傾注している。
著書は『墓相入門』『良い墓・悪い墓』など多数。

岩城史郎
昭和15年11月16日生まれ。 日本大学芸術学部中退後、ジャパンプレスサービス入社。 昭和37年、ハンガリー国際報道写真展名誉賞受賞。
墓の歩み

人間はこの世に“生”を受ければ“死”が待っている。 幸・不幸の明暗、富と貧富の差。名声と汚辱、長命か短命か、 美しい顔。醜い容姿、賢い頭脳に愚かな才知、 それぞれの宿命を背負って人生を終えている。このもがきのなれの果てが“墓”となって、 わたしたちに人間の歩み・歴史を教示している。
ところで日本人のわたしたちはどういう墓を建立してきたのだろうか。 古代においては墳墓、考古学的な表現では“古墳”と名付けられ、 天皇、貴族、あるいはその時代、 時代の支配者階級のみが作り得た「塚」に象徴されよう。
その後、王侯、貴族、支配者グループは、 奈良時代からはじまった中国との国交、遣隋使・遣唐使の派遣に伴い、 仏教の謳歌もさることながら、火葬による遺骨の処理法、中国式祭祀の方法、 「堪与の術」とか「風水の学」といった方術書も伝わり、聖徳太子がこの学問にならって、 大阪府河内に自分の墓を生前に造営された記録が「太子伝」や「徒然草」などにある。 と同時に古墳時代において新道がはたしていた祭祀の役割が仏教にとって代わり、 巨大な古墳でなく、霊を祀るに寺の建立がさかんになり、 四天王寺、橘寺、法隆寺、広隆寺、法輪寺、法隆寺などが続々と建造されていった姿をみるとき、 古墳が小規模となり、聖徳太子からはじめて古墳時代の夜が完全に明けたと判断すべきだ。
仏教が神道にとってかわってからの貴族、武家の死者に対する祭祀は、古墳から石碑の墓々に変化をもたらした。
王侯、貴族はさることながら、わたしたち一般庶民の古い古い祖先の墓といったら、江戸の初期まで「墓石制限例」という法令で支配者たちに縛られ続け、今日でいう墓のイメージとはおよそ縁の遠いものであった。 ある者は水葬で河川や海に投じられ、あるものは川辺、山辺、海岸に埋葬されていたにすぎない。 これらの原型が石川県の能登半島の海岸に、砂まんじゅうの型をしてのこっていたり、四国の香川県観音寺、瀬戸内海の島々の一部、土佐(高知県)、奈良県の柳生の里、京都の嵯峨等に両墓制(肉体を埋める墓と霊魂を拝む墓の意味)という型の姿を借りて残っている。
話をわたしたち一般庶民にもどすことにする。 わたしたちは少なくとも二基や三基の墓を持っている。 多い家庭では二十基から三十基、こういう方は過去においては名家であっただろう。 このことの良し悪しは別として、わたしたち庶民が曲がりなりにも墓を持つことが許されたのは室町時代からだ。 この時代も士農工商と人間を区別していたのだが、なにせ町人の経済力、とくに堺の豪商の登場によって堂々と墓が建立されている。 その事情を民俗学者柳田国男氏は「江戸時代も末期になると、墓制が弛緩し、豪農富商は多大の布施を僧侶に贈って、院号や、居士号をつけ、墓石も大きくする傾向が流行したので、天保二年(1831)四月、幕府は寺社奉行松平信順、堀親宝に命じて、百姓町人の院号、居士号禁止、墓石の大きさも台石ともに四尺に制限した。 しかし、この制限令が忠実に実行されたわけではなく、幕吏の眼のとどかないところでは、かなり大きな墓石がたてられたようだ・・・」と記している。
要するに一般国民が墓碑を建立できるようになったのは、江戸時代に入ってからだ。しかしながら墓の型は王侯貴族・武家たちとはちがい、古来から襲用していた石造りの祠形仏像、たとえば阿弥陀如来・観音さま、地蔵さまに名を刻んだもの、卒塔婆形の石碑、屋形石塔、ごく普通の自然石、または、一般に用いられる切石をもって墓碑としてきた。 この姿は士族とは雲泥の差だったといえよう。そして士族との差を縮めたのは明治維新後のことであったし、わたしたちの祖父母の成功者は、“これみよがし”に巨大な墓々を建立してきた。 今日東京の青山墓地、谷中墓地、染井墓地、雑司ケ谷墓地、多摩墓地、大阪の天王寺、阿倍野墓地などにみられる成功者達の墓々には、かつての王侯、貴族、武家たちをしのぐ立派な墓々の姿をみることができるし、一般庶民の財力をものがたっているといわねばならない。
さて、これまで日本人が墓をどのように建立してきたかのアウトラインを説明してきた。だが、いくら立派な墓を建立しつづけたとしても“ナゼ”無縁仏になる墓が繰り返されるのだろう。
日本一大きい墓を建立した太閤秀吉の末裔はどうだろう。そして、土佐高知にある十六代山内豊範の奇怪な墓は、山内家の凋落と絶家寸前であることを考えてみるとき、唖然とせざるをえない。
そしてまた、人間は誰のために墓を作ってきたのかと思えてならない。



(初代 中川 聖山 著「日本の墓」第一章「日本人と墓」より抜粋)