
清和源氏の流れで、新罹三郎義光が常陸介となり、その子孫が佐竹家を名乗ったのがもとである。
戦国時代は常陸・下野・陸奥におよぶ勢力を持った。
しかし、豊臣時代にはその配下について水戸五十四万五千八百石を領するが、関ヶ原の戦いで石田三成についたため、徳川家康によって秋田二十万五千石に減封された。
財政的には恵まれなかったようだが、天明の飢饉をくぐりぬけ、勧農・殖産をおこし、
有為な人材を登用するなどで佐竹家は幕末には官軍につく。
八代義敦と九代義和は、とくに名君の誉れが高い。
屋形の奥深く祀られている墓は、秘密を意味しているようだ。
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