

この墓は、佐渡相川町の金山の側に建っている。
江戸幕府は一七七八年から、江戸・大阪・長崎の天領を徘徊していた無宿者をつかまえて佐渡へ送った。
そして、鉱山の仕事のうちで最もきつい水替人足に使役することを始めたのである。江戸から送られる者が最も多く江戸水替と呼んでいた。
初めは無罪の無宿者を送っていたので、この島送りは刑罰ではなかったが、後になると有罪の者も送られた。
平人となって許される者は少なく、若くして死ぬ者が多数あった。
これは江戸水替人夫たちの共同墓である。笹にかこまれ、ひっそりと肩を寄り添い名を連ねて眠っている。
何故かしら参詣人たちは道ばたの石ころを拾って二つ、三つと重ねて行くので、墓の台座の上に賽の河原ができている。
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