著名人のお墓 カテゴリ−で探す
五十音順で探す
地域で探す
タイトル
一般のお墓
吉相墓・墓相
会社法人供養塔
タイトル
弔問客の作法
葬儀の進め方
仏教以外の葬儀の進め方
法要の進め方
タイトル
地域で探す
タイトル
仏壇のすべて
書籍
法人供養塔
著名人のお墓タイトル

近松門左衛門

本名は杉森信盛。越前福井出身、俸禄300石の武家の次男。
先祖は浅井長政や秀吉に仕えていた。
ペンネームは芸能の神を祀る近江・近松寺(ごんしょうじ)にかけ、その寺に入ることができない門前の小僧というシャレっ気から"近松門左衛門"としたと言われている。
時代浄瑠璃を約70編、世話浄瑠璃24編、歌舞伎狂言約40編を書いたと推定される。
武士を捨て人形浄瑠璃芝居の宇治加賀掾のもとで修業した。
10代前半に父が何かの理由で失職し浪人になったことから、一家は京都へ出る。
若き近松は都で公家に仕えたが、この公家は自分で浄瑠璃を書くほどの愛好者だった。

近松門左衛門

20歳頃、その使いとして何度も文楽に通う内に、彼もまた浄瑠璃にのめり込んでいく。 1677年、24歳の近松は京の「浄瑠璃語り」の第一人者・宇治加賀掾(かがのじょう)の弟子になる。下積み時代の近松は、舞台で使う小道具を修理したり、副業で講釈師をして生活費をまかない修業を続けた。
31歳の時、古浄瑠璃と決別して新浄瑠璃「世継曽我」を書き、翌年に義太夫の竹本座旗揚げに改訂上演された。歌舞伎でもほぼ10年間、坂田藤十郎のために「傾城仏の原」「傾城壬生大念仏」などを書いて上方歌舞伎の基礎を作った。
後に人形浄瑠璃に戻り、1703年の初の世話浄瑠璃「曾根崎心中」が大ヒット、竹本座の専属作者になった。「国姓爺合戦」で雄大なスケールを見せ、「関八州繋馬」が絶筆となり72歳で没した。
代表的な芸術論に虚実皮膜論がある。「芸というものは実と虚との皮膜の間にあるもの也。虚にして虚にあらず実にして実にあらずこの間に慰が有るもの也」(『難波土産』)。

戒名 阿耨院穆矣日一具足居士 玉垣  
職業 浄瑠璃・歌舞伎脚本作者 境石  
没年齢 享年72歳 竿石  
所在地 兵庫県尼崎市・廣濟寺 石質 自然石
墓の方位 墓のスタイル  
正面入り口の方位   台座 蓮華台

墓地所在地は、変更になっている場合があります。

トップページへ戻る