
巴御前が女武者として名を轟かしたのは、井上靖の歴史小説によるところが大きい。片手に恋を、片手に剣を、馬にまたがった巴御前の勇姿も、歴史のひと駒だった。その巴は、木曾谷の土豪中原兼遠の娘である。そして恋の相手義仲は、二歳の時から巴の父にかくまわれ、二十七歳で青年大将になるまで、巴たちと寝食をともにした仲であった。巴の父は義仲に源氏の血をひく娘をめあわせ、その間にすでに八歳の息子(義高)まであったが、巴にとっては問題ではなかった。義仲との間は妻以上に純粋の愛と思っていたのであろう。
戦いは決して義仲には有利ではなく、宇治川の戦いで源義経に破れ敵中を突破して北陸へと落ちのびるとき、巴御前を入れて主従わずか七騎になっていたという。琵琶湖畔の粟津まで逃げのびたのもつかの間、敵が急追してきた時、義仲は巴を諭した。「木曾殿の最後の戦さに女を連れていたと言われるのも心外なり」、これが巴との最後の別れだったという。
義仲が粟津で討死すると、一人の尼がしばしば墓を訪れるようになった。それが巴御前であったという伝説から、この義仲寺は別名〈巴寺〉という。
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