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初代 實川延若

1831年7月31日(天保2年6月23日)生まれ。大坂出身の歌舞伎役者。
本名は天星庄八(あまぼし しょうはち)。屋号は河内屋。定紋は重ね井筒、替紋は五つ雁金。
大坂に大工の子として生まれた庄八は、3歳のとき芝居茶屋・河内屋庄兵衛の養子となり、これがきっかけで芝居の世界に入った。
1838年(天保9年)、二代目實川額十郎の門人となり、實川延次と名乗る。1840年(天保11年)11月京都南座が初舞台。このころ金に困ると衣装を質入して「裸の延次」と呼ばれていた。また、まだ無名時代の中村宗十郎と出会い、二人で三味線と踊りのコンビを組んで旅巡業をするなど辛酸を舐めた。その後一時舞台を離れるが、1843年(天保14年)にこんどは實川延三郎の門人となり、實川延二郎を名乗り、浜芝居に出演する。
1854年(安政元年)実家を離縁された延二郎は、叔父の尽力で、師事していた六代目市川團蔵とともに江戸に下り、1856年(安政3年)、初代中村福助(のちの四代目中村芝翫)門人で中村延雀となる。

初代 實川延若の墓

すぐに四代目尾上菊五郎にその芸を認められる。菊五郎は延二郎を可愛がり、これを養子としたばかりか、1859年(安政6年)には「菊五郎」の名跡とは不可分なはずの尾上梅幸を襲名させて、これを子がない自身の後継者に擬した。しかし「梅幸」はそもそも尾上菊五郎が代々相伝する俳名で、初代から五代目までの菊五郎は、すなわち初代から五代目の梅幸である。そこに一門の出でもない者を無理に押し込むことにとても承服できない音羽屋一門は、四代目菊五郎が死去するとすぐに三代目菊五郎の外孫をその後継に擁立する構えを見せた。一門にそっぽを向かれ、名ばかりの尾上梅幸となった延二郎は、針のむしろに坐らされたような日々を送るうちに病に伏せてしまった。結局、延二郎は「梅幸」を尾上家に返上し、尾上家は延二郎を離縁することで決着する。このため四代目と五代目の間にもう一人いたこの尾上梅幸は代外扱いとなっている。(「梅幸」返上の原因は、菊五郎の愛人であった吉原の遊女と関係を持って周囲から顰蹙を買ったという説もある。)
またこのころの評判記に「下品」と書かれるなど、上方仕込の芸風が江戸の観客の嗜好に会わないことも、延二郎には致命的な原因であった。
帰阪後、実家と復縁し延三郎門下にも復帰。1863年(文久3年)師匠額三郎の俳名である初代實川延若を襲名する。また同時に實川一門の屋号「井筒屋」から抜け、実家の屋号にちなみ「河内屋」を興し和事芸の研鑽に努めた。
その後、大阪京都を中心に座頭として活躍。その舞台活動は精力的で、出世芸となった小幡小平次の水中早替わりでは寒中にもかかわらず長時間水につかり体調を崩しても最後まで演じきった。元来の気の強さでしばしば中村宗十郎と争ったこともあったが、晩年は温厚な人柄となり宗十郎とすっかり和解し大阪の歌舞伎界を支えた。私生活でも冗談を飛ばして周囲を笑わせたり、遅く授かった長子(のちの二代目延若)を溺愛するなど子煩悩な一面を見せていた。また、丁髷を最後まで切らない保守的な一面もあったという。
晩年は鉛毒症で体調を崩し、1885年(明治18年)正月大阪戎座『島鵆浪此花』の徳川家慶役が最後の舞台となる。今日残されている初代延若の数葉の写真は、病み衰えたものであるという。
幕末から明治初年にかけて、初代實川延若は大坂では右に出る者もいないほどの人気を誇り、中村宗十郎、初代市川右團次とともに「延宗右」と呼ばれた。風采の上がらぬ容姿としゃくれた顎、癖の或る口跡ながらも独特の雰囲気を持ち、和事の世話物を得意とした。『河庄』の治兵衛、『雁のたより』の三二五郎七が当り役。『雁のたより』での五郎七の台詞「お玉どん。知らんがなあ。」や「かアすかに聞こえる」の台詞回しは初代延若の口調が受け継がれている。穏やかで明るくこってりとした芸風で、その本格的な上方和事の演技は、子の二代目延若や同門の初代鴈治郎に受け継がれた。

戒名 天遊院延若日輝居士 玉垣  
職業 歌舞伎俳優 境石  
没年齢 明治18年9月18日 55歳 竿石  
所在地 大阪市中央区・円妙寺 石質 御影石
墓の方位 西西北 墓のスタイル 和型 日延
正面入り口の方位   台座 猫足

墓地所在地は、変更になっている場合があります。

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