
1906(明治39)年京都府に生まれる。大倉高等商業学校中退。
1925年日本活動写真(日活)京都撮影所に入所、1934年退社し第一映画社を創立した。1936年同社解散、新興キネマ撮影所長となる。
1942年大映の専務に就任。1947年社長となる。
「羅生門」のベネチア映画祭グランプリ受賞(1951年)をきっかけとして「源氏物語」「雨月物語」「地獄門」ほかの国際的に名声を得た時代劇の名作を作る一方、70ミリ映画も手がけた。
昭和30年代後半からの映画界の急激な不振の中で大映はじり貧に追い込まれ、1971年には倒産。しかし撮影所は大映労働組合によって維持され、永田も1976年の大映作品『君よ憤怒の河を渉れ』でプロデューサーとしてカムバックした。
墓はかなり奇抜なものである。納骨堂形式であり、しかも中央墓だけが文字のところは黒石をはめこんである。
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