
堂宮大工の棟梁・松平家客分棟梁で、日光東照宮や京都知恩院の造営、眠り猫の彫刻、その他多くの竜彫刻を残したことで有名である。茶道や和歌にも造詣があり、科学的要素をもとにした作品づくりをしたといわれる。
七歳で父と死別し、十三歳まで飛騨高山の伯父の家で過ごした。その後、遊佐与平次の内弟子となり、京の伏見で修行する。成功を夢見て江戸へ出て、地下道の建設を成し遂げるが、その秘密を知っているために抹殺されそうになり、高松へ落ち延びた。老中土井利勝のはからいで甚五郎の死を発表し、高松城の生駒家へ大工頭として仕えた。生駒家改易後、一旦江戸に帰って師の名跡を継いでから、再び高松藩の客分棟梁としてこの地に移住した。左家は、彫刻家の家系として現在に至っている。
墓は、名工左甚五郎のものにしては、意外に貧弱だ。。
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墓地所在地は、変更になっている場合があります。
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