
明治時代、浪曲界の覇者として名声を高める端緒となったのは、曲師お浜が合方を勤め、雲右衛門の芸に磨きをかけたことであろう。雲右衛門がまだ繁吉と名乗っていた当時、繁吉には愛造というライバルがいた。実力は互角だったが、人気の点で愛造が一歩抜きんでていたのである。というのは、愛造の合方の名曲師、戸川花助の腕によるところが大きかった。浪花節にとって、浪曲家を生かすも殺すも三味線次第といわれるほど、曲師は重要な位置を占めているのである。
優れた曲師を求めつつ、大浪曲師・三河梅車について興行をするうちに、繁吉は梅車の妻お浜と出会い、お互いに惹かれ合う。そして、ついに駆け落ちして関東を去ったという。
繁吉が雲右衛門となって再び上京し、人気を得たのは明治三十九年の本郷座公演である。武士道をうたいあげた義士伝の浪曲で、広く聴衆を魅了し、雲右衛門の浪曲界での地位を不動のものにしたのである。
墓は芸名墓で、浪曲界の人々との同居墓である。
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