
大塩平八郎は大阪町奉行所の与力の息子として生まれた。
26歳で与力になり、学問の余暇を利用して武術を修練し、刀・銃・弓・槍の法を悉く知り、殊に槍術は関西第一と称せれるほどだったが、37歳の時に役人を辞め、陽明学の私塾を開いた。陽明学者としても秀れていた。
天保7年の飢饉に際し、救済を奉行に進言するが聞き届けられず、蔵書(一千二百部、六百五十両相当)を売り払って、救民する。しかし、遂には兵を上げ、大阪城を攻撃するが、敗れて自害する。
これが「大塩平八郎の乱」であり、この事件ののち講談となって流布した。
大正三年には森鴎外が小説「大塩平八郎」を発表している。
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