
三河国幡豆郡横須賀村で、吉良義央(上野介)の悪口を言おうものなら袋叩きになるだろう。故郷では名君であったことは確かだ。
作家堺屋太一氏が、『峠の群像』において描いてみせたように、製塩問題が松の廊下の刃傷沙汰の原因だったとしたら、吉良の領民たちにとってこれぐらいの名君はいないだろう。すべて生活がかかっているのだから。しかし浅野長矩(内匠頭)は上野介を憎んだことは確かだ。さらに礼式の指南役である上野介から指導を受けられず、辱しめをうけるに及んで、上野介を殿中で斬りつけるにいたった。内匠頭は抱きとめられ、目的を果たさず、その夜切腹を命じられた。内匠頭は無念だったろう。このような主君に対する扱いに、大石良雄はじめとする臣下の怒りは天を衝いて、心の中で復讐を誓ったという。憎しみは死んでも忘れはしない。そのことが忠臣蔵の舞台をつくり、大石良雄の活躍の舞台をつくった。
墓は、以前は文京区万昌寺にあったが、戦後、寺ごと移された。
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墓地所在地は、変更になっている場合があります。
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