
「西郷さん、わたしはあの日(江戸城開城の会見をしたとき)から、あんたがこうなるのはわかっていましたよ。あんたは人に好かれすぎましたね。もうちょっと、わたしは生きます。亡国免罪の臣、勝海舟として、ね。憎まれっ子は長生きするものです。」
西郷隆盛が西南の役に敗れ、非業の死を遂げるに際しての海舟の言葉である。今日的にみても興味深い評である。上野の森にある西郷どんのイメージ、親しみやすいが、スキだらけ、大久保利通に足をすくわれるのも無理からぬことだろう。
貧しい下級武士の出で、赤貧洗うが如くの家庭に育ったという。藩主斉彬に見出され、才能を伸ばしていった。斉彬亡き後、久光の怒りに触れ、五年の歳月、徳之島へと島流し。歳月はまた隆盛を戌辰戦争へ、江戸城開城の舞台へと登場させた。そして最後は、討幕の盟友であり、竹馬の友だった大久保利通との意見の相違から、暗転と変わり、西南の役へと転ずる人生ドラマ。まさに波乱万丈の生涯といわねばなるまい。
墓は、鹿児島市内の南洲墓地にある。隆盛に殉じた多くの同士とともに眠っている。
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墓地所在地は、変更になっている場合があります。
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