
1911年2月18日(明治四十四年)、福島県安達郡本宮町に生まれる。
昭和四年、天皇中心主義をスローガンに掲げる「建国会」に入会、右翼活動を開始する。
児玉は、その後、津久井龍雄主宰の「急進愛国党」に移籍。
天皇直訴事件、井上準之助蔵相脅迫事件、内大臣・宮内大臣暗殺未遂事件等で起訴。
各実刑で懲役に服し、昭和十二年に出所。
外務省情報部長河相達夫の知遇を得て、中国各地を視察。
十四年、河相の斡旋で外務省情報部嘱託となり、上海を拠点に情報活動に従事する。
開戦直前の十六年十一月、国粋党総裁笹川良一の仲介で
海軍航空本部嘱託となり、上海に軍需物資調達のための組織「児玉機関」を作る。
終戦時には児玉機関を通じて莫大な資金を得ていたといわれ、自由党結成などに資金提供している。
終戦後、東久迩内閣の参与となったが、内閣総辞職で解任。
昭和二十一年一月、戦争協力容疑で巣鴨プリズンに収容されるが、二十三年十二月、釈放となる。
以後、新立川航空株買い占め事件、東洋精糖株買い占め事件、第1次FX選定問題、吹原産業事件、ジャパンライン株買い占め事件などのスキャンダルに関与、59年には全日本愛国者団体会議顧問、61年には青年思想研究会を結成した。また対韓経済援助リベート問題、インドネシア賠償リベート問題など、対外スキャンダルにも黒幕として関わったといわれる。
76年ロッキード事件が発覚。一連の政界スキャンダル問題に関与したことが明らかにされた。同年、自邸にロッキード事件に反発した俳優前野光保の操縦する小型機が特攻し、炎上する事件が起こる。同事件裁判中の81年死去。控訴棄却となる。
戒名 |
不明 |
玉垣 |
無し |
職業 |
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境石 |
外柵26p |
没年齢 |
1984年1月17日歿 72歳 |
竿石 |
90p |
所在地 |
東京都太田区・池上本門寺 |
石質 |
花崗岩(灰色系) |
墓の方位 |
西 |
墓のスタイル |
和型普通 |
正面入り口の方位 |
西 |
台座 |
芝台25cm・下台40cm・上台35p |
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