
1886(明治19)年黒田藩・船出方(現在の福岡県)に生まれる。
早稲田大学政治経済学部を卒業後、朝日新聞記者として20代半ばにして 連載記事「朝野の政治家」を書き、その才筆は世間の注目を集めた。
その後、30歳で留学を決意し、ヨ−ロッパ・アメリカを視察後、朝日新聞社を正式に退社する。翌年政治家を志し立候補するが、落選。1920年の二度目の挑戦で当選。犬養毅の革新倶楽部から憲政会へと移り田中義一内閣の軍事費横領や「満州某重大事件」 などの論戦で名声を得ることになる。
1932年満州事変を契機として右旋回し、政党政治の無力と腐敗をまのあたりにしてしだいに 全体主義に傾いていく。
しかしながら、一貫して東条内閣の一方的な官僚統制、官僚主義的な全体主義には反対であった。
東条内閣下での1942年の選挙では激しい右翼政治家だったため非推薦であったが、最高点で当選した。
そして自らが組織した東方会を率いて東条内閣打倒の急先鋒となっていく。
1943年朝日新聞の「戦時宰相論」では決定的に東条を激怒させることになる。
同年、大政翼賛会を辞退するが、倒閣企図の理由で逮捕。しかし、国会議員のため釈放され、その直後に自宅で切腹自殺をした。
東条に弓を引き自らの命を絶った中野正剛。荒々しく石を刻んだ墓は剛直な人柄を感じるようでもある。
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