テレビの時代劇でお馴染みの大岡越前守。江戸の名裁判官というイメージが定着しているが、
事実は『天一坊』『直助権兵衛』『白子屋のお熊』などの事件の裁判をしたぐらいで、
彼が手腕を発揮したのは裁判官としてではなく、むしろ行政官としてであった。
裁判の改革、連座制の免除、江戸町火消創設、享保の改革の実践、人材発掘、新田開発、物価統制、
通貨統一、大江戸の整備といった行政全般に力を注いだ。
徳川家三河以来の譜代の家に生まれ、十歳で同姓の忠真の養子となり、十一歳で将軍綱吉に拝謁を許され、エリートコースを歩んだ。
とはいえ、順調なスタートだったわけではない。
実兄の忠品が、将軍の勘気にふれ八丈島に流されたり、前半の人生は明るいものではなかった。
ところが役職に抜擢されるや、四十一歳で町奉行になるという異例のスピード出世を果たしている。
清潔な人柄で、六十歳になっても連日登城して、たんねんに仕事を処理していたそうだ。
墓は一族墓として祀られている。
戒名 |
松運院興譽仁山崇義大居士 |
玉垣 |
107cm |
職業 |
江戸中期の幕政家 |
境石 |
10cm |
没年齢 |
75歳 |
竿石 |
190cm |
所在地 |
神奈川県茅ヶ崎市・浄見寺 |
石質 |
花崗岩(灰色) |
墓の方位 |
東南 |
墓のスタイル |
位牌型 |
正面入り口の方位 |
東南 |
台座 |
2段・高さ77cm |
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1987年現在の資料に基づいております。