
「十人の訴えを一度に聞いて、その一人一人に判断を下し与えたという」太子伝にそう記されているが、太子はとてつもない才能の持ち主だったようだ。二十歳で推古天皇の摂政になって以来、官司制度、大陸文化の移植、法隆寺の建立、仏教興隆策、天皇制の確立など、数々の歴史を樹立したスーパー政治家で、その時代の最高のインテリだった。また、墓の学問を研究した日本最初の人だともいわれている。
墓はさすがに支配階級の墓で、山全体が墓となっている。弘法大師が築土して今日の姿になったといわれているが、明治の末期から大正・昭和と、宮内庁が周囲の柵や廟をこしらえたので、昔の面影はない。
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