
原敬はカミソリのような切れ味と、卓抜した統率力を持った政治家だった、と評価は高い。
また、新聞記者出身の総理大臣第一号として、庶民の側に立った政治を目指し、“平民宰相”と世論に支持された。
しかし、その後の強硬な政策で、次第に民衆の支持を失い、不幸にも大正十年十一月四日、東京駅頭で十九歳の青年の凶器に倒れる。
これもまた在職中に暗殺された総理大臣第一号だ。
父は藩世子に軍学を進講していたが、病気がちで五十歳で亡くなっている。
母は気丈夫な女性で、維新によって南部藩取り潰しにあっても家名を辱めず、子供たちを育てあげたという。
原敬は、ただ母の激励を頼りに上京し、苦学しながら外交官への道を進んで行った。
外務次官から総理へ、原敬にとっての政界への道は遠かったが、持って生まれた器が総理だったのだろう。
戦後になって原敬の日記が公開され、明治・大正の政治の裏面史が明らかになった。
彼の遺言によると「墓標には位階級等を記さず単に〔原敬之墓〕と銘記する事」だったそうで、遺言通りに建墓されている。
戒名 |
大慈寺殿逸山仁敬大居士 |
玉垣 |
136cm |
職業 |
明治・大正期の政治家 |
境石 |
自然石30cm |
没年齢 |
66歳 |
竿石 |
93cm |
所在地 |
岩手県盛岡市・大慈寺 |
石質 |
花崗岩(白色系) |
墓の方位 |
南西 |
墓のスタイル |
奇型 |
正面入り口の方位 |
南西 |
台座 |
2段・高さ85cm |
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1987年現在の資料に基づいております。