
吉宗は、紀伊藩主の徳川光貞の四男として生まれた。母が下女の身分で、
おまけに四男だったため、厄介者のように扱われていた。
しかし、自由な身だったので、粗末な服装で町に出ては、広く庶民と交わっていたという。
そこに父や兄が次々と亡くなり、思いがけなくも五代目の紀伊藩主となる。
その後の藩政改革の実績が評価され、ついに八代目の将軍に選ばれるのである。
その頃の幕府は財政難の状況で、吉宗は再建のための改革を推進した。これが亨保の改革である。
厳しい倹約令や年貢の取り立てを行ったので、民衆にとってはあまり良い改革とはいえなかったようだが、
目安箱・町火消し・小石川養生所の設立など、新しい政策をおこなった。この改革は以後、寛政・天保改革のモデルにされたのでる。
家康を範とした吉宗の将軍在位は三十年にも及ぶ。ただ、跡継ぎには苦労させられたようである。
この高野山の墓は彼の墓ではない。子供を思って建てた一つの供養塔であるが、周りは乱れに乱れている。
戒名 |
- |
玉垣 |
120cm |
職業 |
江戸幕府8代将軍 |
境石 |
- |
没年齢 |
68歳 |
竿石 |
100cm |
所在地 |
和歌山県・高野山 |
石質 |
- |
墓の方位 |
北西 |
墓のスタイル |
位牌型 |
正面入り口の方位 |
北西 |
台座 |
2段・高さ85cm |
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1987年現在の資料に基づいております。