
明治三十四年十二月十日、第十六回帝国議会の開院式に臨席した明治天皇の馬車が帰途についたとき、「お願いがあります」と叫んだ男がいた。男はただちに引き立てられ、警察で田中正造と名乗った。手にしていた書状は足尾鉱毒問題についての直訴状だった。警察は彼を“狂人”ということにして放免した。しかも六十一歳の身で、命懸けの訴えを敢行。これが公害問題の第一号として、近代史に田中正造の名をとどめた。
彼の生涯は、反権力の闘士として、政府の危険分子として、七十三歳で没するまで、ひとときも休むことがなかった。その身を渡良瀬川に捧げたといっても過言ではなかろう。
正造は土地の名門の出である。この立場が、農民の利益を護るための擁護者としての責任感を強め、活動家となったのであろう。つまり、農村を破壊し、農民をおびやかす外敵と敢然と闘う使命感が、足尾鉱毒事件につながったといえよう。
墓は農民たちの希望で渡良瀬川沿岸の五カ所に分骨され、記念碑的な墓が数々ある。その中で佐野市・総宗寺にある墓が第一号と呼んでいいだろう。
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