
江藤新平を語るとき、まず語られるのが佐賀の乱での非業の死であろう。明治六年、維新政府の要職にあった江藤は、征韓論を唱えて西郷隆盛、板垣退助、副島種臣らと辞官して野に下り、佐賀に戻った。佐賀に帰った江藤は、明治政府に不平を抱く憂国党・征韓党におされて政府攻撃の兵をあげたが、たちまち政府軍に敗れて佐賀を逃れた。これが佐賀の乱である。その後江藤は土佐と阿波の国の国境近くの海浜の村で捕らえられて斬罪となり、さらし首にまでされた。
佐賀藩を脱藩して尊皇攘夷運動に身を投じた江藤は、五年後に許されて佐賀藩に戻り、その後、明治政府で江戸軍監、江戸府判事、江戸鎮台府判事などを歴任し、江戸遷都を建議するなどその功績は大きい。さらに、明治五年司法卿となり、司法権の独立、警察制度の統一をはかり、改定律例を制定し、フランス法を直訳した「民法草案」を編纂した。
墓は大きい。墓地が広いのは、支配力と財力があることをあらわしている。
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