
彼が後世の作家たちに持て囃されるのは、巴御前とのラブロマンスがあるからにすぎない。叔父、源行家の訪問がなかったら、木曾の山猿でおわっていたかも知れない。源氏の血が騒いだのだ。平家討伐の時が来たのだ。一番乗りで京都へ、しかし武将としては軽率だった。年下の頼朝より単細胞の人物だった。
義仲の失敗は、比叡山延暦寺への挑戦状だ。当時、白河上皇が「朕のままにならぬものは、双六の賽と加茂川の水と山法師たちである」といわしめた比叡山の山法師たち、これに戦を挑み彼はさんざんに叩きのめされ、洛中の悲しいピエロで終わった。
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