
堀部弥兵衛 江戸前期の武士。赤穂四十七士のひとり。名は金丸。
1661〜73(寛文年間)年より浅野長直・長友・長矩3代の藩主に仕えた。槍術に秀で300石、長矩のときに江戸留守居役となる。男子がなく、高田馬場の仇討ちで勇名を馳せた中山(堀部)安兵衛を養子に迎えた。
1701(元禄14)年、主君浅野内匠頭長矩が江戸城松の廊下で吉良上野介義央に刃傷におよび切腹後、父子共に本所松坂町の吉良邸に討ち入った。四十七士中の最長老で、切腹したときは77歳であった。 討ち入りの翌年、細川邸で切腹。弥兵衛が腕を見込んで娘の婿に望んだという「安兵衛婿入り」の演目は、安兵衛の高田馬場の仇討ちとセットになって講談や芝居に脚色され評判をとった。
堀部安兵衛の本姓は中山氏。
1670(寛文10)年、越後国新発田藩溝口家家臣の長男として越後新発田に生まれる。
父の死後、19歳の時江戸に出て、小石川牛天神下の剣客堀内源左衛門に師事。 天性の剣術の才で頭角をあらわし、すぐさま免許皆伝となって堀内道場の四天王と呼ばれるようになった。
1694(元禄7)年 、安兵衛と叔父の義理を結んでいた菅野六郎左衛門が、高田馬場で果し合いをすることになり、助太刀を買って出た安兵衛は、相手方3人を斬り倒した。 これが俗に言う「高田馬場の決闘」で、この決闘で、ただ一人生還した安兵衛の武勇は、江戸中で有名になり、これを知った赤穂浅野家家臣・堀部弥兵衛が、安兵衛との養子縁組を望んだ。 安兵衛は弥兵衛の娘ほりと結婚して堀部家の婿養子となり、浅野家の家臣になった。
その後、1701(元禄14年)年、浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)、「吉良上野介殿中刀傷事件」が起こり、内匠頭は切腹、御家も断絶となる。 安兵衛は、終始仇討ち推進派として動き、そして、1703年1月30日(元禄15年12月14日)、大石内蔵助を盟主とする赤穂四十七士と共に吉良邸に討ち入り、見事本懐を遂げた。
元禄16年2月4日幕命により身柄預け先の松平隠岐守邸で切腹。 享年34。 主君浅野内匠頭と同じ江戸高輪の泉岳寺に葬られた。
戒名 |
弥兵衛・釋 宗香信士
安兵衛・釋 宗亀信士 |
玉垣 |
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職業 |
赤穂浪士四十七士 |
境石 |
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没年齢 |
弥兵衛 享年77歳
安兵衛 享年34歳 |
竿石 |
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所在地 |
大阪市中央区・福泉寺 |
石質 |
砂岩系 |
墓の方位 |
北 |
墓のスタイル |
合祀墓 和型 陣笠 |
正面入り口の方位 |
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台座 |
蓮華台 |
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