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佐々成政

1536年2月6日(天文5年1月15日)生まれ。
戦国時代・安土桃山時代の武将。尾張国出身。
父は佐々成宗(盛政とも)。通称内蔵助(くらのすけ)。
家紋は棕櫚。馬印は金の三階菅笠。鷹司孝子(本理院)の外祖父。
宇多源氏佐々木氏の一族というが明確ではない。兄に政次、孫介がいたが、相次いで戦死したため、1560年(永禄3年)に家督を継ぎ、比良城主となる。
織田信長に仕え、馬廻から戦功を重ねて頭角を表し、1567年(永禄10年)、黒母衣衆筆頭に抜擢された。1570年(元亀元年)6月の姉川の戦いに先立つ「八相山の退口」では、簗田広正・中条家忠らと共に少数の馬廻衆を率いて殿軍に参加し、鉄砲隊を用いて活躍したとされる 。 1575年(天正3年)5月の長篠の戦いでは前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政と共に鉄砲隊を率いた。
1580年(天正8年)、神保長住の助勢として対一向一揆・上杉氏の最前線にある越中平定に関わる。同年秋には佐々堤を築いている。
1581年(天正9年)2月、正式に越中半国を与えられ、翌年の長住失脚により一国守護となり、富山城に大規模な改修を加えて居城とした。
1582年(天正10年)、本能寺の変が起こった時、北陸方面軍は上杉軍の最後の拠点魚津城を3ヶ月の攻囲の末攻略に成功したばかりであった(魚津城の戦い)。
しかし変報が届くと、各将はそれぞれ領地に引き揚げたため上杉軍の反撃に遭い、成政はその防戦で身動きが取れなかった。上洛した柴田勝家も羽柴秀吉に先を越され、同じように対峙していた毛利氏と和睦して中国大返しを成し遂げた秀吉とは明暗が分かれた。
明智光秀征伐後の清洲会議において、柴田勝家と羽柴秀吉との織田家の実権争いが勃発すると、柴田方につく。賤ヶ岳の戦いには上杉景勝への備えのため越中を動けず、叔父の佐々平左衛門が率いる兵600の援軍を出すにとどまった。勝家の敗死後は前田利家の寝返りや上杉景勝の圧迫もあり、娘を人質に出して剃髪する事で降伏し、越中一国を安堵された。

佐々成政の墓

翌1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いが始まると3月頃の書状では秀吉方につく素振りをみせていたものの、夏頃になって徳川家康・織田信雄方につき、秀吉方に立った利家と敵対して末森城の合戦が起こった。この時期は越後の上杉景勝とも敵対していたため二正面作戦を強いられ、苦戦が続いた。秀吉・家康らとの間で和議が成立し、進退窮まると、家康に再挙を促すため、厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を越えて浜松へと踏破するという壮挙を成し遂げた。世に言う「さらさら越え」である。しかし結局説得は功を奏せず、織田信雄や滝川一益にも説得を行ったが快い返事は得られなかった。
翌1585年(天正13年)、秀吉自ら越中に乗り出し、富山城を10万の大軍で包囲。成政は織田信雄の仲介により降伏した(富山の役)。秀吉の裁定により、一命は助けられたものの越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住させられ、以後御伽衆として秀吉に仕えた。
1587年(天正15年)の九州の役で功をあげたことを契機に、肥後一国を与えられた。秀吉は性急な改革を慎むように指示したとも言われる。病を得ていたとも言われる成政は、早速に太閤検地を行おうとするがそれに反発する国人が一斉蜂起し、これを自力で鎮めることができなかった(肥後国人一揆)。このため失政の責めを受け、安国寺恵瓊による助命嘆願も効果なく、摂津尼崎法園寺にて切腹させられた。享年53歳(53歳説が最も有力視されているが、没年は50歳から73歳説まで諸説あり、そこから逆算した生年になっているので、正確な生年は不詳である)。
戒名は成政寺殿奥州太守四品庭月道閑居士。

戒名 成政寺殿奥州太守四品庭月道閑居士 玉垣 小柱
職業 戦国時代・安土桃山時代の武将 境石  
没年齢 天正16年閏5月14日 53歳 竿石  
所在地 兵庫県尼崎市・法園寺 石質 白御影石
墓の方位 墓のスタイル 五輪塔
正面入り口の方位 台座 蓮華台

墓地所在地は、変更になっている場合があります。

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