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大高源吾

大高源吾(忠雄)は、赤穂藩士大高忠晴(200石)の長男として赤穂に生まれた。
幼名は六郎。1676年(延宝4年)4月3日に父忠晴が死去したため、大高家の家督を相続。
ただし父が200石であったのに源吾は20石5人扶持しか相続を認められなかった。藩内では金奉行・膳番元方・腰物方などを務めた。
水間沾徳に弟子入りして俳諧を学び、俳人としての才能を大いに発揮した。同じく俳人として名高い萱野重実や神崎則休などと並んで"浅野家三羽烏"などと称されていたといわれる。
1697年(元禄9年)の参勤交代への従軍ではじめて江戸へ入り、1698年(翌年10年)に赤穂へ帰国するが、その時の旅の様子を紀行文にして『丁丑紀行』を著している。
ところが、1701年(元禄14年)3月14日、主君浅野長矩が江戸城松之大廊下で吉良義央に刃傷に及び、浅野長矩は即日切腹、赤穂藩は改易となった。
この凶変の際には源吾は主君に供奉して江戸にあった。しかし急遽赤穂へと向かい、赤穂城内の論争では一貫して大石良雄派として行動し、大石の盟約にも加わった。赤穂城開城後は、大津や京都に住んだ。源吾は大石の信任がかなり厚い人物の一人で重要な局面でよく使者に立てられている。
1701年(元禄14年)9月下旬、江戸急進派の堀部武庸らが大石良雄の御家再興運動中にそれを差し置いて吉良義央への仇討ちを強硬に主張して大石の江戸下向を迫った際には、鎮撫の使者として進藤俊式とともに江戸へ派遣されている(もっとも逆に安兵衛らの意見に同調して仇討ち急進派となってしまっている。大石良雄自らが江戸下向し、帰京した後に大高も一時帰京した)。

大高源吾の墓

1702年(元禄15年)7月、浅野長矩の弟浅野長広の広島浅野宗家への永預けが決まり、浅野家再興が絶望的となり、大石は京都円山での会議で仇討ちを決定し(円山会議)、大石は命を惜しむ者に脱盟の機会を与えるため「神文返し」を実行することとしたが、この際にも同志のところを回る使者として選ばれたのはこの大高源吾と貝賀友信であった。
1702年(元禄15年)9月18日、源吾は江戸下向にあたり、豪商綿屋善右衛門(赤穂藩のお出入り商人で赤穂藩改易後は討ち入り計画を経済的支援していた)より26両を借用。また遺作として『二ツの竹』を江戸下向直前に出版する。親交のあった水間沾徳や宝井其角などそうそうたる俳人が句をよせている。
そして10月18日に主君の仇吉良義央を討つため江戸へ下った。江戸では町人脇屋新兵衛(わきやしんべえ)を名乗った。俳人としての縁から吉良家出入りの茶人山田宗偏に入門して、12月14日に吉良屋敷で茶会があることを突きとめている。大石良雄は源吾の入手した情報を信用し、この日を討ち入りの日と決める。
吉良屋敷への討ち入りでは、源吾は表門隊に属して大太刀を持って奮戦。吉良義央の首をあげ、一行は浅野長矩の眠る泉岳寺へ入った。泉岳寺では子葉を知る僧侶から一句を求められ、「山をさく刀もおれて松の雪」の一句を残した。
幕府により大石の嫡男大石良金らとともに芝三田の松平定直の中屋敷へ預けられた。
1703年(元禄16年)2月4日、赤穂浪士へ切腹が命じられ、源吾は松平家預かりの浪士10人の最後に切腹の座につき、「梅で呑む茶屋もあるべし死出の山」の一句を残した。
松平家家臣の宮原頼安の介錯で切腹。享年32歳。戒名は、刃無一劔信士。

戒名 刃無一釼信士 玉垣  
職業 赤穂浪士四十七士の一人 境石  
没年齢 元禄16年未2月4日 32歳 竿石  
所在地 大阪市中央区・薬王寺 石質 砂岩系台石は御影石
墓の方位 墓のスタイル 一人祀り 
正面入り口の方位   台座  

墓地所在地は、変更になっている場合があります。

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