
大和郡山藩本多忠直の家来、遠城治左衛門と安藤喜八郎(安藤家へ養子)の兄弟は、弟の宗左衛門が剣術の試合で負かした生田伝八郎に闇討ちとなった仇を討とうとし、逃げていた伝八郎を探し当て勝負を申し入れ、崇禅寺馬場で果し合いを約束。

1715年(正徳5年)11月4日早朝、崇禅寺馬場で果たし合いと定まった。
当日、生田の大勢の門弟らは、稲村の陰、松の梢に姿を潜めて助太刀をしたため、兄弟は無惨な返り討ちとなってしまう。
討った生田伝八郎は、世間の批判に耐えかね、同月24日、郡山の西、矢田千日寺(常称寺)門前で自害。
この事件は赤穂浪士の討ち入り後のわずか12年後のことで大評判になり、特に竹田小出雲、近松半二らの合作の浄瑠璃「敵討崇禅寺馬場」により広く世に知られるようになった。
映画では、戦前に3回、戦後は1957年(昭和32年)、東映で『仇討崇禅寺馬場』(大友柳太郎主演)が製作された。
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