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楠木正成タイトル

楠木正成の墓

南北朝時代の武将。1294年大阪・千早赤阪村の山里に生まれ、金剛山一帯を本拠地とする。幼名多聞丸。生年に関しての確実な史料は存在せず、父は系図により楠木正遠あるいは正玄、正澄、正康、俊親などと伝え、はっきりしていない。 そのため正成の前半生はほとんど不明であり、判明している生涯は元弘元年の挙兵から建武3年の湊川での自刃までのわずか6年ほどに過ぎない。
鎌倉時代末期、元寇から半世紀が経ち、幕府にはもう与える恩賞がなく権威が失墜していた。執権の北条高時は政治への興味をなくし遊興三昧の日々。民は重税に苦しみ、世の秩序は乱れた。
1331年、幕府打倒を目指して後醍醐天皇が京都で挙兵。篭城戦で大軍の幕府軍を翻弄。幕府の権威を失墜させるのに成功し足利高氏(後の尊氏)や新田義貞らの謀叛への遠因となる。
戦後建武政権下で河内国司と守護を兼任。和泉守護にもなった。のち、後醍醐天皇の南朝に反抗し九州から東上する足利尊氏と戦う。多勢に無勢であったが、天皇の命により出陣。奮戦むなしく湊川の戦いで戦死。江戸時代より講談の主人公となる。明治以降は「大楠公(だいなんこう)」と称され、1880年には正一位を追贈された。
正成の終焉の地・湊川にある墓は、もとは畑の中の小さな塚で荒廃していたのを、1692年に“水戸黄門”徳川光圀が自筆で「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した墓石を建立、整備した。光圀は「逆賊であろうと主君に忠誠を捧げた人間の鑑であり、全ての武士は正成の精神を見習うべし」と正成の名誉回復に努めた。墓の傍らには水戸光圀像がある。
室町時代の軍記物語『太平記』には、正成について「智・仁・勇の三徳を備え、命をかけて善道を守るは古より今に至るまで正成ほどの者は未だいない」と刻んでいる。

戒名 霊光院大圓義龍卍堂 玉垣  
職業 南北朝時代の武将 境石  
没年齢 建武3年5月25日(1336年7月4日) 竿石  
所在地 神戸市中央区・湊川神社 石質 御影石
墓の方位 西 墓のスタイル 儒教式
正面入り口の方位   台座 亀趺

墓地所在地は、変更になっている場合があります。

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