

伊東甲子太郎の墓(中央) 藤堂平助の墓(右)
伊東甲子太郎(新撰組参謀)
新撰組隊士・三木三郎と実兄で、本名は鈴木大蔵。
常陸国志筑(茨城県新治郡)出身。
天保6年(1835)〜慶応3年(1867)11月18日。享年32歳。
旗本郷目付鈴木専右衛門の子として誕生するが、父は家老と対立して閉門蟄居・脱藩。
伊東甲子太郎は水戸で学問と剣を修行し、北辰一刀流の伊東誠一郎に入門するが、
師が病死したため、遺言によってその一人娘うめの婿となり道場の跡目を継ぐ。
やがて藤堂平助の誘いで共に京に上り、元治元年10月に新撰組に入隊。
その年の干支にちなんで、甲子太郎と名を改める。
水戸学・国学を修めており、尊王敬幕と攘夷の思想のため新撰組に加盟したが、
近藤勇・土方歳三の佐幕(幕権強化・回復)の考えと亀裂が入り新撰組離脱。
のちに近藤勇の妾宅で歓待された伊東甲子太郎が、帰りに待ち伏せの新撰組隊士数名に
襲われ死去。遺骸は囮として放置され、引取りのため駆けつけた藤堂平助らが
待ち伏せされ死去した。
藤堂平助(新撰組副長助勤 八番隊隊長)
1844年(天保15年)、江戸にて誕生。伊勢津藩藩主、藤堂和泉守の落胤とも言われる。
神田お玉ケ池の千葉周作道場の門人であったとも言われるが、同じく北辰一刀流で深川にあった伊東甲子太郎の道場にいたという説があり、
後に新撰組から伊東が分派しようとした際に行動を共にすることから、この説が有力である。
同じく北辰一刀流を修めた山南と関係があるのかは解らないが、試衛館と交流があったことで共に浪士隊に参加したと思われる。
池田屋事変では眉間を割られると言う重傷を負うが一命は取り留め、副長助勤として活躍するも、
慶応3年、御陵衛士として分派した伊東と行動を共にしたため、油の小路にて暗殺された。享年24歳。
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