

幕末、蛤御門の変(別名:禁門の変)で幕府連合軍に敗れた長州勤王の烈士の墓。
1863(文久3)年の政変で京都を追放され、1864(元治元)年池田屋事件で多くの藩士を失った長州藩。
その背景下で京都御所を攻め、会津・桑名・薩摩などの幕府軍を相手に御所を攻め、激しく戦ってさらに多くの兵を失った。
この時、一番激戦だったのが蛤御門の辺りだったために「蛤(はまぐり)御門の変」と呼ばれるようになった。
長州藩は福原越後・国司信濃・益田右衛門介の3家老も失い、また久坂玄端・寺島忠三郎・入江九市・真木和泉・来島又兵衛などが戦死した。
指揮をしたといわれる桂小五郎(後の木戸孝允)は無事生き延びた。
総勢2000人もの長州藩の軍と幕府側の連合軍の戦いは、京都の町中を巻き込む大戦争になり、長州征伐のきっかけとなる。
本名墓はこの世に生の執着がある証ともいわれている。細長い石で造られているのが特徴。
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