
1884(明治17)年陸軍中将東条英教の長男として東京都に生まれる。
陸軍士官学校(一七期)・陸軍大学校卒。満州事変頃から統制派の有力メンバーとして頭角を現した。第ニ・三次近衛内閣の陸軍大臣を務めたが、日米衝突を回避しようとする近衛首相に対して、強硬な主戦論を唱え、第三次近衛内閣を退陣に追い込んだ。
誰の説得にも応じない東條の強硬さに手を焼いた天皇の側近たちは、東条英機本人を首相にすえることで、陸軍の権益を代表する立場を離れさせ、天皇の下命により対米交渉を続けざるを得ないように追い込むことができると考えた。
また、日本政府が最後の望みをかけて行っていた日米交渉の間唯一陸軍の強硬派を抑えることができる人物でもあったため、1941年に第40代内閣総理大臣に起用された。
陸軍大臣を兼任。国内の戦時動員体制を強化し、参謀総長も併任したが、1944年7月サイパン島陥落を機に総辞職。
戦後、A級戦犯としてGHQにより逮捕される。その直前、拳銃自殺を図ったが奇跡的に一命を取りとめた。
1948年11月12日、極東国際軍事裁判(東京裁判)で絞首刑の判決を受ける。辞世の句は「我ゆくもまたこの土地にかへり来ん」。
日本を戦争に引きずり込んだ張本人のように言われることもあるが、東条の首相就任時には既に開戦は避けられない状況だったとして東条に同情的な意見もある。しかし憲兵を恣意的に使って恐怖政治を行ったために評判は悪い。
墓所は樹木に囲まれており、台石の異常さ、竿石に妖気が漂う。しかし、かみそりと言われた東条の墓、自己主張の強い男として映る。
遺骨は、愛知県幡豆郡幡豆町三ヶ根山にある殉国七士廟に埋葬されている。
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