元禄太平の世、突如として天下を騒がした「忠臣蔵」の頭領大石良雄、この人物ぐらい後の世の人々に人気があるのを知らない。講談に、大衆時代小説に、浪花節に、映画に芝居にと、不入り続きでも、「忠臣蔵」さえ興行すれば大当たりする。テレビドラマなどでの人物像は、“昼あんどん”ということで、かっぷくのよい小肥りの男で、何を考えているのかわからない茫洋とした人物として扱われているが、事実はやせっぽちの小男で、貧相だったという。だが喜怒哀楽は表面に現わさず、頭領としては大人物だった。
主家の再興に奔走したのだが不可能になり、やむなく大石は同志四十六名とともに吉良の邸を襲撃し、その首を主君の墓前に供えたという。江戸太平の夢をいっぺんにさました仇討の世界だった。その快挙は、武士道正義を正す手段としての復讐計画だったともいえよう。山科で陰棲したり、祇園の一力で遊びほうけたり、江戸仇討の急進派を抑えたり、血判誓約を一たん破棄したり、討ち入り前のドラマもさることながら、討ち入り後の赤穂義士の頭領にふさわしい態度は、庶民の共感をよぶのは当然といわねばなるまい。
東京都港区、泉岳寺にある四十六士の墓は、いうなれば同志墓だといえる。
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