
1838(天保9)年、薩摩藩に生まれ、中村半次郎という名前だった。吉野という貧弱な土地を有する地方であったため、少年時代、城下の侍たちからは差別的な扱いを受けていた。
農業の傍ら示現流の稽古に励み、示現流薬丸派の門下でいきなり高弟として遇せられる。
その腕前を買われ、京に赴く西郷隆盛の護衛として随行する。このころ「人斬り半次郎」と異名され、新選組も怖れをなしたと言われている。その腕前は軒先から落ちる雨だれが地面に達するまでに、刀を三度抜き三度鞘に収められたなどの逸話が多く残るほどであった。
やがて西郷に信頼された半次郎は長州藩の内状を探るなど奔走し、戊辰戦争には多くの首級を上げて勇名を知られた。薩長同盟ののち鳥羽伏見の戦いで活躍し、西郷に野戦能力を認められ会津戦争では軍監として会津藩降伏の際、若松城受け取りの任に当たっている。
1877年、薩摩士族1万が蜂起した西南戦争が勃発。西郷軍の事実的総司令官は桐野利秋であり、熊本城奪取を豪語していたものの失敗し、その後、希望的な展望もないままに半年間も戦争は続いた。西郷の切腹を見届けたあと、最後の突撃を敢行し数十発の弾丸を浴びながら壮絶な戦死を遂げた。
墓は剣の白刃を思わせるりりしいものである。しかし、その佇まいは家族断絶の姿を露呈しているようにも見える。
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