
死後は神格化され、軍神として神社にまで祀られた乃木希典は、嘉永二年、長州藩士の家に生まれた。
幼年期は心身共に虚弱で、おとなしい少年であったが、世は激動の時代。
十六歳になると吉田松陰の叔父・玉木文之進に弟子入りし、十八歳で初陣に臨み、以後は職業軍人として生きて行くことになる。
二十九歳で西南戦争に出陣した時、薩軍に軍旗を奪われたことが彼の一生の精神的傷痕となり、自殺の要因ともなった。
ドイツ留学から帰って来てからは一時休職していたが、日清戦争及び台湾平定に参加、戦功をあげる。
その成果を買われて、今度は日露戦争に第三軍司令官として出征。
友人でもある児玉源太郎の力で勝利はするものの、五万九千人もの死者を出し、このとき二人の息子も失った。
東郷平八郎と並んで日露戦争の国民的英雄となった乃木ではあるが、
司馬遼太郎氏の小説にも描かれているように「軍人としては無能であった」というのが一般的な見方のようだ。
明治四十年には明治天皇の要請で学習院院長に就任し、皇族の子弟の教育にあたっていたが、明治天皇の葬儀の日に夫人と共に自決する。
大正初期の日本に大きな衝撃が走ったこの事件は、世界にもショックを与えた。
墓は一口にいって殉死の姿が垣間見える。老夫婦の自然石のカップルに、ひんやりしたものを感じる。
戒名 |
- |
玉垣 |
- |
職業 |
明治時代の陸軍軍人(大将) |
境石 |
30cm |
没年齢 |
64歳 |
竿石 |
102cm |
所在地 |
東京都港区・青山霊園 |
石質 |
自然石系 |
墓の方位 |
北西 |
墓のスタイル |
奇型 |
正面入り口の方位 |
北東 |
台座 |
1段・高さ36cm |
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1987年現在の資料に基づいております。