
大友宗麟ほど評価がわかれる武将も珍しいのではないだろうか。聡明、無能、スケールの大きな人物、浪費家、好色、完全主義者、などなど。宗麟には、相反する様々な人物評が存在する。
大友家二十一代の当主として、権謀術数の限りをつくした九州の大名を次々倒し、一五九六年、弟義信を半ば犠牲にして毛利元就を九州より一掃した武力は、相当のものだったといえるだろう。一代で九州最大の勢力を築きあげて、大友氏は最盛期を迎えるが、衰退するのも早く、宗麟の晩年には次第に衰えていった。
キリスト教を保護し、ドン・フランシスコという洗礼名まであるが、宗麟が心からキリスト教を信仰していたのかどうか、疑問をはさむ学者もいる。戦のための銃や火薬、ヨーロッパの武器ほしさに宣教師に近づいたのではないかというのである。いずれにせよ、洗礼を受けてからは、神の国の建設を夢見ていたようだ。島津氏との戦に大敗したのも、その辺に原因があるといわれている。
戦に敗れ、家臣からも息子からも裏切られ、失意のうちにこの世を去った。
クリスチャン墓であった宗麟の墓は、息子に破壊されてしまった。江戸時代に、家臣であった子孫が密かに建立したという。幕府の目を逃れるため、小屋掛けの墓になっている。探し歩かないと見つけられないだろう。
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