
戦国の時代、土佐でも小豪族たちの争いは絶えることがなかった。元親は、その土佐を平定し、四国全土を手のうちにした武将である。
しかし、幼少の頃は、家臣たちには“姫和子”と蔑視の目を向けられ、父親にも軟弱だと思われていた。そのためか、彼の初陣は二十三歳のとき。武将の子供としては非常に遅いものであった。
その戦では、幼い頃のイメージをふきとばす勇猛な戦いぶりを見せて、宿敵の本山勢を打ち破り、敵の大将を浦戸城まで追いつめた。しかし、父親が急病になり、やむを得ず退却。その途路、元親は戦陣を整えているように見える敵の城を空城だと見破って、攻略した。旗差物が動かないこと、戦いの途中誰ひとり助けを求めるために城を見なかったこと、また、城から兵が助勢に来なかったことなどその理由を指摘して老臣たちを驚かせた。そういう冷静沈着さをも合わせ持っていたのである。
また、元親は武将として優れていただけではない。法令『百箇条』や『地検張』などで土佐藩制の基礎をつくった政治家でもあった。
墓は、徳山の人が探し出して祀ったという。土に埋もれていたのか、傷だらけの墓である。
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※番地等不詳のため、墓地の詳細は不明です。
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