
清正公の故事は韓国にもある。秀吉の命で朝鮮侵攻当時、手づかみで虎を退治したという伝説から、子供がむずかると「キヨマサオンダ(清正が来るぞ)」といって黙らせるというのである。
清正は秀吉と同じ尾張国(愛知県)の生まれで、母が秀吉の母といとこ同士だったという。十五歳で元服し、竹中半兵衛に軍学剣術を学び、武将としてのスタートをきった。彼の才知は衆に秀で、半兵衛に教えるすべがないと感嘆させたという。
朝鮮での戦いでは、驚くほどの快進撃だったが、勢いがあまって軍律違反をおこし、秀吉に謹慎を命ぜられた。けれども秀吉への忠誠は終生変わらなかった。秀吉亡き後の天下分け目では家康側に属す。武将としての生涯であったことはいうまでもないが、家康に懐柔された面がある。
後半は熊本城の改修をはじめ、領主として慕われ、 五十三万石を支配していた。
墓は自然石の巨石である。自然石で建立された人々は熱血漢・情熱家の性格を持つ人物が多いが、清正もそのとおりである。
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墓地所在地は、変更になっている場合があります。
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