
前田利長は、前田利家の長男で加賀藩二代藩主である。織田信長に仕え、父に従って数々の戦功を挙げ、
信長の娘・玉泉院を娶り、五大老の一人にまでなる。
しかし、秀吉・利家が相次いで病死すると、徳川家康が前田家潰しにかかり、謀叛の噂をたて、兵をあげようとする。
とてもこれを防ぎきれないと思った母は、自ら進んで江戸に人質として赴き、難を逃れた。
その後関ヶ原の戦では、家康方に加担し、その功により加賀・能登・越中の三国を領有、百二十万石の太守となった。
一方、豊臣家は六十五万石に転落。利長はすでに衰退ぎみの豊臣家との関わりを断ち切るために、
四十代半ばで引退を決意し、弟利常に家督を譲り、高岡に城を築く。利常を後見して九年、五十三歳でこの世を去った。
墓は、その利常が、先代利長の冥福を祈って瑞龍寺とともに建立したもので、壮大な墓である。
しかも寺の周囲には掘をめぐらし、領国の東方を守るための、城の役目をさせることを考えていたようだ。
墓も掘と木柵で厳重に囲まれ、晩年の高岡城での蟄居の姿を現わしているように見え、前田家の歴史を覗かせるような気がする。
戒名 |
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玉垣 |
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職業 |
安土桃山・江戸初期の大名 |
境石 |
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没年齢 |
53歳 |
竿石 |
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所在地 |
富山県高岡市・瑞龍寺 |
石質 |
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墓の方位 |
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墓のスタイル |
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正面入り口の方位 |
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台座 |
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1987年現在の資料に基づいております。