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武田信玄タイトル

武田信玄の墓

「人は城、人は石垣、人は堀、なさけは味方、あだは敵なり」信玄が残した名文句である。 その言葉どおり、信を内に置き、常に他国へと進出していた信玄の本拠地は、ほとんど無防備だった。信玄の政治力の強さとも言える。
 甲府駅前には、信玄像が威風堂々と甲府盆地を見つめているように建っている。 四方が山々に囲まれているこの盆地。この地で戦国武将の大立物が活躍したのかと思うとき、日本の歴史の重みを感じる。 ライバル上杉謙信、織田信長を討って天下を狙おうとした信玄。人生これ戦いに勝つのみというのが戦国の世の武将の生き方だったのだろうか。 が、志あと一歩というところで信玄はこの世を去った。
 父信虎も甲府盆地をしっかりと守り、戦国の序曲を奏でていたが、信玄が成長するに従って、 親子は対立していき、そしてついに父を追放することになった。信玄二十一歳、彼は歴史の表舞台へ登場してきた。 肉親とて油断のできぬ、血と血の争いへと拡がる戦国時代の絵巻は、ダイナミックで、千変万化、信玄はその時代に生きた男だった。
 英雄色を好むのたとえどおり、信玄も本妻のほかに側室として上杉朝興の女、諏訪頼重の女、信濃禰津元直の女、甲斐の油川氏の女たちがいる。 子供は七男五女の十二人いたとされている。
 山梨県塩山市の恵林寺の奥まったところにある信玄公墓所は広い。戦国武将たちのなかでも広いほうだろう。

戒名 法性院機山信玄  玉垣
職業 戦国時代の大名 境石
没年齢 53歳 竿石 256cm
所在地 山梨県塩山市・恵林寺 石質 花崗岩(白色系)
墓の方位 墓のスタイル 五輪塔
正面入り口の方位 台座
1987年現在の資料に基づいております。
墓地所在地は、変更になっている場合があります。

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