
幕末は青年の活躍舞台だった。多くの若い群像が活躍していた。高杉晋作もその中の一人である。彼はその歴史の転換期に、忽然として現れ、“さらばじゃ”と消え去った人物に写る。放蕩無頼、奇略縦横、豪胆奔放、流星の如く現れ消えた人間だった。
幼時は高杉の“お坊っちゃま”と甘やかされ、わがままな乱暴者に育った。しかし、少年期は読書に目覚め、早熟で、信長に熱中し、自分が信長に似ていると狂信したエピソードすら残っている。
彼をスケールの大きい人物に育てたのは、いうまでもなく吉田松陰だ。松陰の死後、師の志を継ぎ、学問に国防充実に身をささげ、航海術を学びに上海に赴くといった具合に、寸暇を惜しんで生命の炎を燃やし続けた。死に至る五年間に、全身全霊を、歴史の舞台に自らぶっつけて生涯をとじた。満二十七年と八ヶ月、人の十倍のエネルギーをついやした男だった。「太く短く生きる」という言葉は彼のためにあった言葉だろう。
墓は恩師吉田松陰の墓からすこし登ったところに立っている。師の側にいたいとする晋作の弟子としての謙虚さがうかがえる。
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※番地等不詳のため、墓地の詳細は不明です。
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