
服部半蔵が忍者としてずば抜けた力を持っていたことはいうまでもないが、東京・麹町に“半蔵門”という名前が残っていることこそが、彼の活躍を如実に物語っている。
服部一族は、元来平家の一門であったが屋島の敗戦後、伊賀に隠れ住み服部を名乗るようになった。以後、忍者として活躍する。半蔵も8歳で荒修行し、12歳のときには一人前の忍者になった。18歳で「鬼半蔵」と呼ばれるほどである。この時点まで半蔵は、ただの忍者として生きてきた。忍者は普通“乱波”と呼ばれ、特定の主には仕えずに、その都度依頼主との契約で働くのが習わしであった。しかし、半蔵は徳川家康に仕え、家康の下で江戸幕府の礎をうちたてるために間諜として大活躍し信望を得た。そして、家康が江戸に居城を構えた折、邸を与えられ禄を封ぜられた。これが“半蔵門”として、いまにその名を残しているのである。上忍半蔵は徳川幕府の、今でいうなら諜報部長のような働きをしていた。300年も続いた徳川幕府の基礎は、一面で半蔵の活躍があったからであろう。
半蔵の墓は、忍者にふさわしい墓である。しかし反面、忍者が位の高い宝篋印塔墓とは理解しがたい。下級武士には許されなかった墓の世界だ。
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