
関ヶ原合戦で敗れ、伊吹山麓に逃げ、潜伏したが、慶長五年十月一日、京都は六条河原で小西行長、安国寺恵瓊らとともに斬首されたというのが史実とされている。三成死後、「ライバルの家康の命令を受けた榊原康政が秘密裏に三成をかくまい、天寿をまっとうした」というとんでもない珍説すら登場している。
石田三成の墓は京都の大徳寺にあるが、江戸時代は、徳川家が三成の墓を許さなかったようである。このため三成の墓は、土に埋められ、世の中に顔を出さなかった。明治の末、関西の実業家朝吹英二氏が陽の当たる場所に改葬した、という記録がある。
それにしても三成は才智で頭角をあらわした男である。十五歳で秀吉に見出され、最年少で奉行に昇進。秀吉天下のときは破竹の勢いだったという。秀吉なき後、豊臣政権防衛のため西軍で「関ヶ原の戦い」にいどみ、家康に敗れたことはみなさんの知るところだ。家康は三成を処刑したことはむろんのことだが、三成の生地湖北の石田村にある先祖の墓石まで破壊させ、土中に埋めさせたという。家康はよっぽど三成が憎かったのだろう。長男重家は京都妙心寺の寿聖院に入門、父の霊を安らげるために僧侶になったという。
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