
明治から昭和にかけて活躍したジャーナリスト・歴史家・評論家。本名は、猪一郎。徳富蘆花(1868年-1927年)は弟。
熊本洋学校に学び花岡山の盟約に参加。
洋学校閉鎖後、京都の同志社英学校に移ったが、不満をもち退学。しかし校長新島襄への敬愛は変わらなかった。
1881年帰郷して大江義塾を創設するとともに地方新聞等に執筆。
1885年「第19世紀日本の青年及其教育」、1986年「将来之日本」を出版、1887年上京して民友社を結成、雑誌「国民之友」創刊、
1890年「国民新聞」創刊。進歩的平民主義の立場に立つジャーナリストとして知られた。
しかし日清戦争後、内務省参事官となるなどして変節を非難され、1898年「国民之友」は廃刊された。
1911年貴院議員となったが、1913年には政界を離れ、以後評論家として活躍。
「近世日本国民史」全50巻で1937年学士院恩賜賞受賞、1943年文化勲章を受章。
その皇室中心の国家主義思想は、第2次大戦下の言論・思想界の一中心となり、1942年大日本言論報国会会長。終戦後はA級戦犯容疑を受け、公職追放となり熱海に蟄居した。
しかし60年以上にもわたる言論活動と300冊に及ぶ著書は、近代日本の歩みと矛盾を体現したものであったとも言えよう。
『近世日本国民史』は1918年に起稿し、1952年に完結。資料を駆使し、織田信長の時代から西南戦争までを記述した全100巻の膨大な史書である。
神奈川県の二宮町に徳富蘇峰記念館がある。
(参考文献:コンサイス 日本人名事典・ウィキペディア(Wikipedia))
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戒名 |
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職業 |
ジャーナリスト・歴史家・評論家 |
没年齢 |
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所在地 |
東京都府中市・多磨霊園 |
墓の方位 |
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正面入り口の方位 |
西西南 |
玉垣 |
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境石 |
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竿石 |
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石質 |
自然石 |
墓のスタイル |
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台座 |
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1987年現在の資料に基づいております。