新井白石は、十八世紀初頭の江戸期における類まれな儒学者、政治家である。学問思想的には、正当な朱子学者であり、また、徹底した合理主義者の側面を持っていた。そして彼の思想は、時代の転換期を画す近代思想の曙光とされている。つまり、封建社会から近代への脱皮を促したオピニオンリーダーなのである。
ところで、白石は不運の人である。父の失脚によって、青年期は貧窮に苦しみ、政治的にも彼の晩年は、不遇そのものであった。さて、雌伏に耐える白石が、めきめき頭角をあらわすきっかけが訪れる。元禄六年(一六九三)、当時、甲府藩主であった徳川綱豊に認められたのである。以後、綱豊が六代将軍家宣となってからの白石は、実質的な政策決定者として力量を思う存分発揮する。その政治は、あくまで公平無私と言う原則に貫かれていた。
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