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新渡戸稲造タイトル

新渡戸稲造の墓

 旧五千円札の顔で有名な新渡戸は、1862(文九2)年、現在の岩手県盛岡市に生まれる。
9歳で上京、13歳で東京英語学校に学ぶ。 その後、札幌に農学校が設立されたのを聞いて、同じ学校で学んでいた内村鑑三らと共に第2期生として入学。 そこで、生涯を通じた合理主義・自由主義・国際人をしての基礎を培った。
札幌農学校を卒業した新渡戸は、1883(明治16)年東京大学に入学するに際して 「先生、私は太平洋の橋になりたいのです。」と面接官に大志を述べたという。
卒業後はアメリカ、ドイツへ留学して農学・経済学などを学んだあと、国際的な教育者として多くの人材を育てた。 また『武士道』に代表されるような著作活動によって日本文化の海外紹介につとめた。 当時立ち遅れていた女子教育にも取り組み、東京女子大学初代学長となり設立に尽力した。
 国際連盟事務次長をはじめとする要職につき、国際平和にも大きく貢献。 当時の交通事情の中で7回もアメリカ大陸に渡っており、アメリカ人であるメリー・パターソンと結婚する。 二人が結婚したのは、ちょうどクーデンホーフと光子が結婚したのと同じ頃で、新渡戸は国際結婚のはしりでもある。
 1933(昭和8)年の夏「太平洋会議」出席のためカナダ・バンクーバーを訪れていた際に、腹痛を訴えビクトリア市内の病院に入院。 そのまま急性膵臓壊痕のため死去。享年71歳。
現在、盛岡市とビクトリア市は新渡戸を縁として姉妹都市となり、ビクトリア市の太平洋を望む丘には、 盛岡の岩手公園にある記念碑と同じものが建てられている。

戒名 - 玉垣 -
職業 教育者・文士 境石 -
没年齢 71歳 竿石 -
所在地 東京都府中市・多磨霊園 石質 ピンク
墓の方位 墓のスタイル -
正面入り口の方位 台座 -

墓地所在地は、変更になっている場合があります。

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