甲府宰相徳川綱重、及びその子綱豊に仕え、綱重が将軍世子となると西の丸お納戸組頭となる。零約術の発見と、これによるπの近似分数355/113の証明、円理の創始などの様々な業績で、それまでの和算の流れを全く変えてしまった天才である。初めて筆算式代数を行い、西洋の行列式にあたるものをそれより早く行っていたり、和算は関孝和から始まるといわれる。
幼年期の頃から、大人が計算しているのを見て誤差を指摘し、神童とうたわれていた。青年期には、奈良にいつのものか誰のものかも分からない唐本が仏書にまじってあったと聞き、「そんな本なら大方算書だろう」と奈良に赴いた。日夜これを書き写し、江戸へ戻ってから三年かかって、その奥義を極めたという。時計師が直せなかった、唐から渡来した人形時計を見事に直したというエピソードも残っている。
“算聖”とあがめられ、関流を称する数学者は多い。
墓は、竿石の先がとがっていて、なかなかの才能の持ち主だったことがうかがわれる。
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