
小倉金之助は、自由精神を抱いて行動する学者だった。封建的、官僚的階級制度やファシズムと闘い、国民の“科学的精神”の育成に生涯を捧げた。「科学的精神、数理的教養を欠いた国民の中から、数学の天才を生むことも、また真に実力ある国家を建設することも、期待することが出来ない」と著書の中で言い切っている。
山形県酒田市の回漕問屋に生まれた金之助は、学校嫌いだったが化学に興味を持ち、番頭見習になるべきところを中学入学に変更する。だが、中学はつまらなく、中学の終わりから東京へ。このころ物理化学に興味を持つが、東大医科に入学してからは、独力でできる数学に熱中し、大正九年にはソルボンヌ大学に留学する。
学問には厳しく、資料の取扱いなどにはやかましかったが、若々しい精神の持ち主で、青年を愛してやまなかったという。その自由な精神が陸軍の反感をかって、弾圧を受けたこともあるが、戦後は「民主主義科学者協会」の会長に就任し、日本科学史学会会長もつとめた。数学教育界や科学史界で、多くの業績を残した人物である。
墓は一つの風格がある。
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