
高山樗牛の名を一躍高めたのは、森鴎外との二度にわたる大きな論争だ。
当時の文壇は、鴎外らの沈滞でマンネリズムに陥っていた。そこに出現したのが、高山樗牛である。
大学在学中に、歴史小説『滝口入道』が読売新聞の懸賞で優秀賞をとった。二十四歳のときである。
その後、小説は書かなかったが、博文館発行の『太陽』の文学欄を担当する記者として、早大・東大の教壇に立ちながら、評論に活躍した。
「最初は文壇の事情に通じなかったため、大分わきに外れたようなことを言って笑われた」と
田山花袋が彼を評しているように、樗牛の批評が正鵠を射ていたかどうかは別として、明治の文壇に大きな刺激を与え、
その後の新しい文学的潮流を生み出す活性剤として大きな役割を果たしたといえよう。
明治四年、鶴岡(山形)に生まれる。明治三十五年、結核で他界した。墓は日本人にしては珍しい胸像墓である。ヨーロッパの文豪たちの墓を真似して建立したのであろう。当時としては、ユニークな墓である。
戒名 |
文高院靈岱謙光日贍居士 |
玉垣 |
ー |
職業 |
明治時代の評論家 |
境石 |
ー |
没年齢 |
31歳 |
竿石 |
ー |
所在地 |
静岡県清水市・竜華寺 |
石質 |
大理石系 |
墓の方位 |
東 |
墓のスタイル |
奇型 |
正面入り口の方位 |
東 |
台座 |
1段・高さ10cm |
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1987年現在の資料に基づいております。