彼についての資料は、確実なものがほとんどない。後代の人によって作られたものが多く、実在の人物ではないという説まで出たことがある。
とはいえ、いくつかの伝説をはじめ、講談や芝居で語り継がれてきたように、義民の代表格である。
当時の印旛郡佐倉藩主は堀田正信。百姓たちは重税にあえいでいた。
困窮した彼らは、先祖伝来の田畑を売り払い、離散する者も出たという。
租税はますます重くなり、百姓一揆を計画するまでに追い詰められた。
その指導者が佐倉惣五郎である。
まずは江戸屋敷に訴えたが顧みられず、次に老中に駕篭訴するも下戻しとなり、ついに将軍・家光に惣五郎が単身直訴。
その願書は、堀田正信に下げ渡された。
正信は減免を命じ、家臣に責任を問うたが、家臣は惣五郎一人に罪を着せ、夫婦と幼い男子四人を極刑にしたという。
夫婦は、我が子が殺されるのを見た後、磔刑になった。数年後、堀田氏は没落。惣五郎夫婦のタタリと言い伝えられている。
墓はいつ頃からか鉄格子の門で閉ざされている。見事な多宝塔の墓は、後世に誰かが建立したのであろう。
戒名 |
涼風道閑居士 |
玉垣 |
95cm |
職業 |
江戸前期の百姓一揆の指導者 |
境石 |
110cm |
没年齢 |
49歳 |
竿石 |
220cm |
所在地 |
千葉県成田市・東勝寺 |
石質 |
灰色系 |
墓の方位 |
西 |
墓のスタイル |
宝塔の一種 |
正面入り口の方位 |
西 |
台座 |
3段・高さ100cm |
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1987年現在の資料に基づいております。