幸徳秋水たちの「大逆事件」「天皇暗殺計画」も戦後になり、史料が公開され、研究が進むと、それらすべてがデッチあげだと判明した。国の内外からも、この「大逆事件」は注目された。
暗黒の時代と自由な時代との明暗が思い知らされる。当時の政府は、判決より五日目に秋水らを処刑してしまった。幸徳秋水の辞世の句、「爆弾の飛ぶよと見えし初夢は、千代田の松の雪折れの音」は、無念の心がにじみでている。
秋水は、父篤明、母多知子の三男として四国は高知県中村で生まれた。少年期から自由民権運動の影響を受け、十五歳の頃には中村を訪れた板垣退助に、有志代表で「祝文」を朗読するほど、政治に対して早熟であった。中学を卒業すると、大阪で中江兆民の学僕となる。三十歳まで兆民を師とあおいでいたが。微妙な意見の対立から門下生をやめた。
兆民と別れてからの秋水は、土佐弁でいう“いごっそう”を地でいっていた。大酒を飲んでは母に意見され、妻との間では家庭争議が絶えなかった。晩年の彼は消極的な“筆の人”だった。とても「大逆事件」をおこすような人物ではない。
秋水の墓は個人墓だ。初妻は二ヶ月で離婚、後妻千代子は、英・仏語を知る才女で十年間連れ添ったが、自分の方から去っていった。子孫もなく、ほんとの1人ぼっちの墓である。
|
トップページへ戻る |