岡倉天心は大戦中、国家主義者の烙印を押されていた。
彼の著書『茶の本』の章句「アジアは一つなり」が“大東亜戦争”のPRに使用されたからだ。しかし、天心はそんな考えで書いたのではない。
彼の考えを理解したのは、L・P・ウォーナー博士であった。京都や奈良が爆撃されなかったのはウォーナー博士の助言によるものだという。
天心の孫、岡倉古志郎氏は、天心生誕百年を迎えて、『祖父天心のこと』をエッセイとして書いている。
「祖父母が結婚したのは祖父が十九、祖母十六のときで祖父はまだ東大文学部の学生だった。
祖父の卒業論文を執筆中、私の父を懐妊中だった祖母は、ヒステリーを起こし、夫の大事な卒論をピリピリ破いてしまった。
仕方なく祖父は締切までの二週間を殆ど徹夜で書き飛ばしたのが『美術論』であった。」
卒業後は文部省に入り、古美術の保護、美術の普及、美術教育調査にあたった。
新潟県にある赤倉山荘で没するまで、日本の美術界を指導しつづけた。東洋美術にささげた生涯である。
墓は墳墓形式で、寝棺式と言うべき洋式スタイルをとっていて、人との違いを物語っている。
戒名 |
釋天心 |
玉垣 |
− |
職業 |
明治時代の美術行政家・思想家 |
境石 |
− |
没年齢 |
52歳 |
竿石 |
50cm |
所在地 |
東京都豊島区・染井霊園 |
石質 |
灰色系 |
墓の方位 |
西南 |
墓のスタイル |
奇型 |
正面入り口の方位 |
西南 |
台座 |
1段・高さ17cm |
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1987年現在の資料に基づいております。